◆リラ物語8(愛について4)◆

 

この地上に生きるものは(一部の例外を除き)必ずその命を終える時がやってきます、これは誰にも逃れることのできない天の摂理でした。

*でした、と過去形で書いたのは3次元での摂理のお話だからです。
次の次元を目指す人にとっては「死」という概念が全く違ったものとなって行くはずで、私たちが認識する死そのものが存在しない可能性もあるからです。
*(どう言うことかの説明は文末に追記しておきます)

愛するもの、大切に思うものとの離別さえも広義でいう「愛」の一つでもあるのです。
大切なものとの離別は、時として残された者にとって耐え難いほどの悲しみや痛みをもたらします。

でも、そのインパクトが大きければ大きほど、その離別を乗り越え自らの足で立ち上がり、明日を生き始めた時その人の精神性に多大な意義と進化をもたらします。

あるいは愛する者との出会いを過ごし、その間に愛おしい子を授かったとしても、やがてお互いの道が変化し片親としてその子を育てなければならなくなった方もおられることでしょう。

また子があろうとなかろうと自ら離別を望み、それに向けた精神的な苦痛の日々を経験した方、している方も少なくはない事でしょう。
それを人生のつまずきとか、自らの因果と嘆く事は有りません。

勿論その渦中にいる時に、自分が今体験していることが魂の進化につながっているといった達観はそう易々と受け入れるのは難しいことです。
しかしだからこそその苦しさに意義があるということなのです。

「明日自分は信じていた人に裏切られる、それは自分の魂の成長なのだから」
このように最初から明日の出来事を知っていては、その事象がもたらす真の意味が薄れ、インパクトもなく心の準備さえ出来てしまい体験学習として成り立たなくなってしまうのです。

本来こうした過酷ささえも天の慈悲による愛と言う事になるのです。

また、この宇宙に普遍に存在する重要な事象である「無常」もまた愛の一つです。

無常とは常ではないということ、すべての事象・事物には永遠はなく常に変化を続け流れゆくものであるということです。
今私たちが体験しつつある次元上昇も、この変化を表しています。

例えば自分の大切なパートナーや伴侶との時間にさえいつか必ず変化が訪れます。
どれほどお互いを必要とし受け入れてきた二人であろうと、最後は人生の終焉によってお互い離れ行くものです。


*<追記>実際、私の従兄弟がすでに新しい次元に移行しています。

彼は、私たち家族の目には「死」という形で、一旦は肉体が消えてしまいましたが、次元移行に伴う彼の「移動」は、私たちが知る「死→転生」というセオリーとは全く違う形で行われました。

彼は全ての記憶を持ったまま新しい肉体に入って、これから少し遅れて向かう私たちを先の次元で待っていると、彼の魂から直接聞きました。

3次元での誕生は全ての記憶をリセットして、母の体内から生まれると言う道を辿ります。

しかし従兄弟は、赤ちゃんで生まれて育って行くという私たちがたどる肉体の成長をすっ飛ばし、その次元で用意されていた少年期の肉体にするりと入り込んで、しかも全ての記憶は消えていないのです。
これは今私たちが生きている3次元では肉体の死であっても、次の次元に私がたどり着けば、少年の姿の彼に会い、彼もまた私を忘れずに再開できるということになります。
これが高次元では「死」そのものの概念が全く違うと言う、その説明です。