◆リラ物語6(愛について2)◆

 

前回、宇宙そのものは「愛」というエネルギーで成り立っているとお話ししましたが、ここで大きな疑問が生まれて来ます。

 

もしこの宇宙(神と同じ存在)が愛として存在しているのなら・・・

「穏やかで平和で慎ましやかで人を思う」意識とは全く真逆な、暴力や欺瞞、執着や物理的我欲、怒りや苦しみ、恐れや疑心と言った体験を私たちが経験しなければならないの、と言う疑問です。

 

ここはとても重要な事で、この地球の存在の意味にも繋がって来ます。

そうしたネガティブと思われる事さえも宇宙の愛の一つなのだと理解できてくると「宇宙=愛というエネルギー」で成り立ってい本当の意味が見えてきます。

 

例えば「敵への愛」と言われても、自分に対し好意的でない相手に簡単に無償の愛など送れるものではなく、嫌ったり怒りを向けてしまう。むしろそうした意識を持つことの方が一般的かもしれませんね。

 

右の頬を打たれたら左の頬を差し出す。そんな宗教的な意識を簡単に持てるわけはなく、それを口にする人は欺瞞であり偽善だ、そう感じたとしてもおかしくはないかも知れません。

でも、だからと言って偽善だと感じること(非難やジャッジ)が必ずしも愛に背をむける事になる訳では有りません。

 

そうでは無く、ジャッジや批判をしなくなる過程を、体験していると理解したほうがいいでしょう。

 

宗教教義のように「ねばならない」意識で、自分の中に浮いてくるネガティブな部分を嫌って、蓋をしてしまう方が大きなストレスを生じさせてしまいます。

 

進化や変容は、時にとても緩慢に進んで行く場合もありますので、一つの事だけに集中しすぎ「無理」をして自分を矯正してしまうことは、逆に進化の遠回りになってしまうかもしれません。

全てはバランスです。

 

今私たちが体験し始めた次元移行は少しづつ少しづつ、悠久の中で仕掛けられて来た怒りや恐怖、痛みや苦しみから離れ行くことが実は次移行の一つの側面でもあるのです。

いきなり聖人のような意識になる、簡単にできることではありません。

 

「善なる心と善行こそが次元移行の必須要件」

そんな巷にあふれる宗教的教義に惑わされることなく、今の自分を信じ(例え今自分を裏切った者への怒りや悲しみに囚われていようと)自分は遥かな次移行の中にあることを信じることが、天の愛というものへの理解に辿り着く旅なのす。

 

そうは言っても、確かに自分を裏切った相手に対しての怒りに捕らわれていれば、それはもう苦しささえ感じますね。

 

ただその苦しさだけに意識を向けるのでは無く、なぜ自分はそうした怒りや悲しみの中に入り込んでしまうのかを客観的に見ることができれば、そこにも自分進化のための大きなヒントが隠されています。

この考え方に関してはまた、別の機会でお話しします。

 

さて、今の自分が聖人君子でないことを残念に思うことなど全く無く、それでもいつか天の「完全意識」を理解で出来る様になれたらいいな。そんな漠然とした希望を持ちつつ日々を暮らして行けばいいことなのです。

 

漠然であっても完全意識を理解したいと希望することでハイヤーセルフはその願いを聞き届け、今はまだその理解に到達できていなくとも「自分なりのスピードとルート」で自分をその理解のステージに連れて行ってくれる筈。

 

その遥かな旅の間、自分を信じ裏切り裏切られながらも、本来人が持つ善性を信じ旅を続けて行くことが高次への道をたどる方法となります。

 

私たちには赤ちゃんや幼子と言った優れた教師がいてくれます(自分の子たちでなくても)

彼らは自分の行動に「指針」なんて持ってはいませんし、人の善悪に関しても興味も示しません。

 

肌の違う同士、言葉の通じない同士、イデオロギーも宗教も別々の国で生まれた同士であっても、幼子達が共にいれば先ず相手を受け入れ仲良くして行く事から始めます。

多分、地球外生命体の人達とでさえ・・

 

彼らは小難しい事など口にする事もせず(できませんし)そこに平和の輪が生まれて行く事を私たち大人は見ている筈なのです。

 

純粋でピュアな意識への回帰もまた、高次への旅の「ガイドブック」なのでしょうね。