リラの持つ異性愛が作り出すポジティブエネルギーは体を合わせる愛の行為だけからではなく、共に触れ合う相手への敬愛と信頼の上に成り立つ静かな時間からも作り出せるものです。

聖愛を単に体を合わせる行為だけと解釈してしまうと、例えば老成した男女やまだ異性を知らない人は、その役割をこなせないとなってしまいます。

でもパートナー同士、たとえ性行為がなくても心の触れ合う時間も「行為」に匹敵するポジティブなエネルギーを生み出して行くことに違いはありません。
むしろ老成したカップルならではの思慮深いエネルギーを生み出します。

多くの執着から解放され、ただただ目の前にいるパートナーを慈しみ、自分たちに関わる人々(家族や知人、隣人たちなど)の安泰を願う時、そこには若い人では作り出せない思慮深く深い優しさに溢れたエネルギーを作り出す事ができます。

ここにはパートナー同士の心の触れ合いによるリラのエネルギーが生まれて来ます。

アイヌの言葉に「イランカプテアンナー」と言う挨拶の言葉があります。

これは「あなたの心にそっと触れてさせてください」と言う意味です。
「こんにちは」と同じ様な意味合いなのだそうですが、社交辞令の言葉なんかではなく、これこそ心同士の真の挨拶ですね。

しかもこの言葉が単なる精神論的な意味合いではなく、本来のアイヌの人々は本当に相手の心に触れることが出来るからこそ生まれた言葉でしょうね。

もし相手の心に触れる能力があれば、その世界には嘘や欺瞞が生まれる余地がありません。
相手の心が読めてしまう世界では疑心暗鬼になって争いが起きるという低い周波数の世界とは無縁という事です。

でも、ここにはとても深い意味があって、普段は軽々しく相手の「心」に土足で踏み込む事はしない。
でも相手への心からの挨拶をする時には、心が読めるチャンネルに自分の感知能力のチューニングを合わせ、その上で心に触れていいかと言う許可をもらうのですね。

私も他の方の前世を見る事が出来ますが、だからと言って何時でももどこでも、見知らぬ人の前世が常に見えてたり、見ようとする訳ではありません。

前世であってもその方のプライベートですので、むやみに踏み込むことはしません。
普段の社会的接し方の時には常に、リーディングチャンネルのスイッチは切った状態にしています。

でもクライアントさんが来られ、前世リーディングを望まれた時にはチューニングとボリュームをMAXにしています。

さてお話をリラに戻しましょう。
触れ合うと言うことは体だけでなく心の触れ合いも同等の価値を持つのですね。

ただ老成したカップルであっても「執着からの解放」の度合いによって生み出されて行くエネルギーは大きく変化することは言うまでもありません。

幾つになっても現世への執着を過度に持っていれば、そこから生み出されるポジティブエネルギーはあまり高いものとは言えないでしょう。

ただこれはストイックに生きるべきと言う道徳的な事ではないのです。
何に執着しているかということが重要です。

人類が持つ3大欲(食欲・睡眠欲・性欲)や生きる上で必要な物欲、向上心や覇気を否定している訳ではありません。
本来私たちはこの体を維持するため基礎的な「欲」は必要不可欠でもあるからです。

本能といってもいいですね。

それに引き換え、今の経済社会の上に生まれる欲。

他者への依存や、独占欲、支配欲、嫉妬や恨みから生まれてくる男性社会が持つ「現世欲」が、少々ややこしく、あまり高い周波数とは言えません。

この辺りを理解して行くと、執着とはないかを何となく分かって来るのではないかと思います。

 

さて、では恋している時や関係が深くなり始めたカップル同士での執着はどういうものでしょう。

彼の心が知りたい、彼女を独り占めしたいと願う気持ちも過度になり過ぎると、その欲が結果として自分自身を縛り付ける見えない鎖になってしまう事もあります。

いつもいつも相手の動向が気になったり、常にメールやメッセージの返信を待ち、何も手につかなくなってしまっていたら、それが独占欲や支配欲や独占欲に自分自身が縛られ始めた時かもしれません。

どれほど親しく深い関係であっても、その相手も一人の独立した魂を持った個別の人格です。
たとえ恋人同士であっても、夫婦であっても、親子であってさえ個別の魂であるということに違いはありません。

心許した間柄であっても、相手の価値観の違いを受け入れられる緩さこそが、執着から一歩引くと言う事だと思います。

恋人同士だから、夫婦だから、家族だから同じ価値観を持ち同じ言葉を話さなければならない訳ではなく、むしろその違いを面白がるくらいの余裕を持てた時、相手の心に静かに寄り添う事が出来るものです。
でもこれは相手への信頼があって初めて成り立ちます。

そのためにも相手の心のシャッターを降ろさせてしまわないように、過度な執着に入り込まない事は大切です。

たとえ恋の経験が多い人であっても、相手が初めて出会う人ならが恋の経験値は役に立ちません。
だって、初めて出会った相手に対しては「初心者」なのですからね(笑)


少し余談になりますが、初めて出会った相手でも魂レベルではすでにその相手を知っています。

「袖すり合うも他生の縁」
この人生ですれ違う程度の縁であっても過去世で何らかの縁があったと言うことわざです。
まして言葉を交わし、心を通わせ、愛し合うパートナー同士となる相手は、この人生を選ぶ前(生まれる前)にすでに確実に出会う事を約束して来て居る筈です。
仮に肉体(表層自我)での初めての出会であっても、魂(深層自我)では決して初めて合う相手ではではありません。

ただ3次元世界においては過去世の記憶は「思い出さない」という項目にサインをして生まれて来て居るから、初めての出会いとしての時間が始まって行きます。

私も妻に出会った時に「この人を知って居る」という確信はありました。でも当然ながらこの人生では過去世での関係の続きではありません。
全く知らない同士の新しい関係として始まって行くのです。

だからこそ初めての経験であり、相手に対しては魂での知り合いであっても表層自我では「初心者」なのです。


さてお話を戻します。

また逆に、相手への気持ちが離れ始めた自分に戸惑う事があったとしても、それにダメ出しは必要ないでしょう。
この宇宙は「無常」です、無常とは常に変化が続くものであり、常ならないと言う事。

人の心も同じように移ろい変化して行くものです。
逆に相手の心の変化にも素直に対応できるようになるという事が、言ってみたら執着からの離脱なのかもしれません。

だからと言って離れたり、別れなければと早まる事ではないと思います。
不思議なもので、出会いの頃はお互いを強く求め合うものですが、相手の心や価値観を理解し、それを受け入れて行く様にになると相手への強い執着が薄れて行くものです。

「心に触れ始める」事で、相手への疑心が薄れて行き、逆に執着から解放されて行くわけです。

マンネリなんていう言葉もあるでしょうが、そう見るのではなく相手への安心感と信頼が生まれて来ると、過度な執着から自然と離れて行くものです。

これは心が遠くなったのではなく、むしろ安定という段階に入って来たからかもしれません。

例えば子育てという大きな仕事をなし終えた夫婦が子供の独立とともに新婚のようになる夫婦もいれば、今度はお互いを大切と思いながらも意識が独身の時のように解放され始める事もあるでしょう。

長い年月を共に過ごす事で相手を徐々に理解して行き、お互いの心に「触れる」事が出来る様になって来ればそこには疑心は浮かばないのですね。

心や意識に土足で踏み込んでしまう事は、逆に相手の心を遠ざけ、また知りたいはずの相手の心にシャッターを閉めさせてしまうことになりかねません。

相手の心に触れたい、知りたい、そう思った時こそ程よい距離感と、程よい執着に留める。

この全く真逆に見える真実。
だからこそ恋はややこしいのですけどね。

異性との関係の始まりは戸惑いながら、少しの痛みや悩みを感じながらも、何を知るためにこの人生でまた出会ったかを知る事も一つの体験学習なのかもしれません。

「イランカプテアンナー」覚えておいてくださいね。